科学的思考と権威主義の距離

 別にコロナ禍に限った話でもないけれど、ある種の揉め事においては「お前の主張は非科学的だ」のような批判がなされることがある。最近で言えば、コロナは風邪勢とか反ワクチン勢とかが、科学的思考勢から批判を浴びている。個人的にはCOVID-19は風邪とは質的に異なる危険な感染症だと思うし、コロナワクチンは、大抵の人にとって便益がコストを上回ると思うので接種された方が良いと思うが、ともあれそれは本題ではないので措いておく。ここで僕が問題にしたいのは、「科学的思考とはなにか」ということである。

 「科学とはなにか」についてはたくさんの議論の蓄積がある*1。有名なのはカール・ポパー反証主義とか、トーマス・クーンのパラダイム論とかだろうか。そのあたりの議論を横目に眺めつつ、ごく大雑把に科学的思考(科学的方法論)について僕なりに重要な概念を取り出すと、「整合性」と「検証可能性」だろうか。順番に説明しよう。

 「整合性」とは、科学的主張は観察や実験の結果、あるいはすでに確立された知識のすべてと辻褄があう必要がある、というものだ。ある現象は説明するけれど別の現象は説明できない、とか、既存の理論と矛盾する、といった理論は、科学コミュニティでは受け入れられにくい。(まぁ、既存の理論のほうが間違っていた、ということもまれにあるのだけれど。)

 「検証可能性」とは、その主張が正しいかどうか、確かめる方法がある、くらいの意味だ。「神はいる」という主張は、神がどういう存在で、神がいるとは具体的にどのような状況(何らかの物理的実体が観測できるとか)を指すのかを明らかにしないと、科学的な議論の対象にはできない。*2

 科学的な方法論では、現象を説明する「仮説」が作られ、それが観察や実験と比較して矛盾がないかが確かめられる。矛盾があれば「仮説」は否定され、棄却されたり修正されたりする。そうして検証を耐えた仮説は通説になり、どうやら正しそうだぞということになる。通説は新しい仮説が出てきたときに仮説検証に使われたりする(つまり、通説に矛盾する仮説は否定されやすい)。このように検証をへて仮説を補強していくことで、漸進的に真理にいたろうというのが科学的な方法論だ(というのが僕の理解だ)。科学的思考をするなら、検証することは欠かせない。

 

 さてそれでは、僕のような素人が日常生活において何らかの判断をくだすとき、科学的に思考するとはどういうことだろうか。例えば、僕がワクチンを打つべきかどうか悩んでいるとして、科学的思考によって判断するにはどうすればよいだろうか。

 1つの方法は、ワクチンの有効性を自分で検証することだ。何らかの手段でワクチンを手に入れ、被験者を集め、年齢や体重その他の交絡因子となりそうな属性を調整した上で被験者を2つのグループに分け、1つのグループにはワクチンを、もう1つのグループにはプラセボを接種し、(このとき、被験者はもちろん、僕の側もどちらがワクチンを接種されているのか知らないほうが良い。)その後の経過を観察し、結果を統計処理にかければ良い。*3その結果、ワクチンを接種した群で感染率や重症化率が有意に低ければ、ワクチンの有効性は高そうだ、と考えることができる。*4もちろん、専門家ではない僕にそんな事はできない。

 もう1つの方法は、査読付き論文などの文献を調査することだ。コロナウイルスに関する研究は世界中で活発に行われている。もし僕が論文データベースにアクセスできるならば、それらの文献を網羅的に調査することで、ワクチンの有効性について妥当な判断を下せるかもしれない。ただし、論文ではその分野の基礎的な内容(例えばその分野の学部向けの教科書に書かれている内容)は省略されていることが多いから、論文を読み下すためにはその分野の専門的な知識が必要になる。まぁ1つの分野についての専門知識なら、素人の僕でも大学に入り直すなどして勉強すれば身につけられるかもしれない。しかし、その学習コストは果たして「ワクチンを打つべきかどうか」という判断を行うためのコストとして妥当だろうか? 学習している間、ワクチンを打つかどうかの判断を保留するべきだろうか?(それは実質的にワクチンを打たないと判断しているのと同じではないか?)

 実際のところ、専門家ではない僕はワクチンの有効性を厳密な意味で「科学的に」判断することはできない。僕にできるのは、せいぜい僕に理解できる程度の文献(たとえば厚労省の発行しているパンフレットとか)や、雑誌の記事やツイッターで見かけた専門家の意見をもとに、何を信じるかを決めるだけである。そのときの判断基準は、「厚労省がそう言っているということは、多くの専門家が同意する内容なのだろう」「多くの専門家の意見が同じということは、それは妥当な意見なのだろう」といったものである。このとき問題になっているのは、主張の内容ではなく発言者であり、同じ意見を聞いたとしても、発言者が厚労省なのかよく知らないツイッタラーなのかで信じるかどうかを決めている。この態度は、まぁ権威主義と言ってしまってよいだろう。

 素人が科学的判断を下すことはできなくて、科学的判断っぽいことをしようとすると権威主義に陥る。それ自体は仕方がないと思うけれど、少なくともそれに自覚的になっておいたほうが良いと思う。あとになって、信頼していた専門家が間違っていたと知るときが来るかもしれないし。*5

 

 ところで、素人が科学的思考をしようとすると権威主義に陥るとすると、素人が「自分の頭で考え」たときに非科学的な考えに陥る危険性が高まると考えられる。インターネットを見ていると、そんな気がしてきませんか?

*1:興味のある人は科学論とか科学哲学で検索してほしい。個人的なおすすめは伊勢田哲治先生の「疑似科学と科学の哲学」

*2:その点、インテリジェントデザイン仮説はその仮説の主張自体は定義されているため、科学的な議論の対象にできる(し、結果としてボコボコに否定された。)

*3:ちなみに、もし僕が結果を論文にして投稿する予定があるなら、事前に倫理委員会から実験許可を得る必要があるだろう。

*4:あるいは、すでにワクチンを接種されている人々のデータをもとに、ワクチンの有効性を検討する方法もある。

*5:たとえば信頼していた行動経済学者の過去の論文にデータの捏造が見つかったりとか。

参考:行動経済学の『ずる』は予想以上に不合理 - 本しゃぶり